零れ櫻


「壬生、頼んだ」
 村雨の声が飛ぶ。
 それは取り零しを片付けろという意味だ。
「態とですね」
 呟いた壬生はグロックを構えた。ポリマーのフレームは、まるで玩具のようだが元は正規品の拳銃だった。元はという以上改造されている。発射装置を含めた大方の部品、フレーム以外は殆ど改造されていた。
「この程度、全部処理出来るでしょうに」
 僅かな苛立ちを含んだ呟きと共に発射される弾には薬莢も雷管も弾頭すらなく、殆ど無音で打ち出されたそれは紙玉に過ぎない。壬生の長い指が引き金を絞る度に、紙を丸めたとは見えない完全な球形の紙礫が、向かってくる蟲型の式目掛けて飛んで行く。カブトムシに似た甲虫型の式は、そんな紙玉など難なく弾き飛ばしてしまうだろう。そんな印象とは裏腹に、紙玉が当たった甲虫はその途端砕け散る。その破片から推測するに、依り代は木片のようだ。
── それなら、この弾でいいな。
 御門考案の符呪を丸めた弾丸の中でも低威力の、言い換えれば大量生産タイプの弾で効き目があると言うことだ。
 村雨の符術を掻い潜り、己の背後に止まるセダンに向かう甲虫達は、次々に紙玉の餌食になる。無駄弾を弾くことなく、淡々と狙撃を続けていると、前方で盛大な炎を撒き散らし、蟲達を焼き殺している男の背中も、ついでに撃ってやろうか、と考えたりもした。
 蟲使いに襲われたことは何度目だろう。どうにもしつこい流派があるようだ。
 何故執拗に狙われるのかを村雨に尋ねたことがあった。過去に因縁でもあったのかと思ったからだ。あまりに執拗ならば頭目を始末してしまえばいい。そう考えていたことを、村雨は読み取っていたようで、相性が悪いだけだ、と薄く笑って返した。
── そんな言葉で片付けられるものでもないだろうに。
 今でこそ、こうして飛び道具を手にしたので反撃出来るが、近接戦、それも人間相手の戦いに特化した自分にとって、蟲などは最も苦手な対象だった。
 少し前に龍麻と京一の仕事先に偶然出会した際に痛感した。その時は鳥で、小型、高速、多数と、お手上げ状態だった。秋月柾樹の護衛として雇われたのは、あくまで対人間だった。滅多にないことだが、いわゆる鉄砲玉を雇って移動中の征樹を襲う輩もいる。もしくは「御門の浜離宮」に入る手立てを得る為に、護衛である自分や村雨を捕らえようと考える輩もいた。そうした、「人間」を相手にする為に雇われた筈だ。
 否、そう考えていたのは自分だけもしれない。
 眼前に迫る甲虫に咒弾を撃ち込み、壬生は独りごちる。
── ここまで具体的ではなかったろうが。
 秋月は本来は独立または孤立した集団だ。誰の手も借りないし、誰にも手を貸さない。それによって清廉な組織であり続けた。しかし長い昏睡から当主を目覚めさせる為に、緋勇龍麻の手を借り、その後は当主の命で彼に手を貸すことになる。
 結果として妖魔と対峙する機会も増した。数々の戦いの中で、共にそれに参加した村雨は危惧を覚えていたに相違ない。
── 結構心配させてましたね。
 呪術や妖術は、拳武館時代の自分とは全く相容れない存在で、当初はそれまでの己の修業が無意味にさせられたようで認めたくもなかった。だが、そんな嫌悪感も次第に薄れた。
 今、こうして村雨の符術が蟲達を焼く様を見ても心は乱れない。村雨の符術は多岐に渡るが、雑魚の妖魔相手は火炎系を使用することが多い。すっかり見慣れた光景と言える。だからこそ、その炎の合間を縫ってこちらに飛んでくる蟲の数が多いことに苦笑うのだ。
 一頻り撃ち捲り、次の一団との時間を稼いだ間に、弾倉を交換する。紙製の弾では弾太りすることもないので、着脱に手間は掛からない。そもそも銀玉鉄砲ばりに簡素な構造なのだ。安全装置、弾倉の交換といった機能の原形は残し、射撃装置は面影もなかった。一センチの弾が無造作に且つぎっしり詰め込まれた弾倉をグリップに嵌め、再び引き金を絞る。
 そう、これは実戦訓練だ。
 固定した的から御門の繰る式神まで、地道に射撃訓練を重ねた。そもそも射出原理が闘氣を術式で火薬の換わりにするという常人には理解出来ない代物だった。正直今でも理解出来るとは思っていない。ただ、今は撃てるようになっただけだ。武術とは異なる戦い方だが、戦うという意思そのものに変わりはなく、それが拳や蹴りに乗るか、紙玉に乗るかの違いに過ぎないのだろう、と今は思える。
── 程々な敵での実戦訓練か。
 万一蟲を後ろに逃しても、セダンの後部座席に座る征樹の隣には御門がいる。結界に守られた車両に蟲ごときが入り込める筈もないのだ。
 見事にお膳立てされた状況下の訓練だが、お陰で勘所は掴めた。単なる数での襲撃には対処出来る。後は銃と体術の切り替えや、より強力な妖魔や式神への対処方法だ。それもおいおいそういう場面に遭遇するのだろう。おそらくは車中の主の意向一つで。
 闘氣のコントロールを無意識レベルに保ちつつ、意識の半分は別の気配がないかを探り、半分は残弾を数える。ポリマー製の銃の利点は何より軽いことだ。予備の弾倉を幾つでも仕込める。それでも体捌きに影響は及ぶ。次の実戦訓練はその辺りの確認だろう。そんなことを脳の片隅で思っていると、向かってくる甲虫の数が減っている。見れば村雨の火勢が大分収まっていた。そろそろ向こうは仕舞いのようだ。弾倉が空になる前にこちらも終わる。
 焦臭さも次第に薄れ、若干煤けた風体の村雨が最後の火炎を収めると振り返った。自分との間に降り積もった木塵を一瞥して安堵の笑みを片唇に浮かべるのが見えた。
 そういえば、彼は一度も振り向かなかったと、ふと思う。上着の内側のホルスターにグロックを落とし込んで、彼がやって来るのを待っていると、後ろで車のドアが開く音がした。
「お見事でしたね、壬生さん。どうでしたか?」
 開発者としては気になるところだろう。
「問題ありませんでした」
 そう応じると、
「改良の余地はあるでしょうが、それは重畳です」
 目を細めた。
「今んとこは十分だろ」
 傍らに遣って来た村雨がひらひらと手を振った。彼の纏う煙草とは違う燻香が漂う。
「壬生さんの伎倆は問題ありません。ソフトではなくハードの面で改良が必要かもしれないということですよ、村雨。弾の圧縮率を上げればマガジンの交換率を下げられるでしょう?」
「そりゃいいな。予備のマガジンを無尽蔵に持てる訳じゃねぇし」
「それにバレルの内側のコーティングも強化した方がいいでしょう。紙とはいえ咒を施した弾が通るのです。バレルに転写した防御の咒の効果も確かめないと……」
── これはどうしたものだろう。
 置き去りにされた感のある壬生は溜息を漏らす。
 御門が完璧主義なのは知っているし、村雨の保護欲旺盛なのも知っている。その二つが相まっての会話だと判っていても面映ゆいことこの上なかった。
 自分は守られているのだ。
 人を守ることを学べと鳴瀧冬吾に送り出された先で、守られていることを実感しているというのも奇妙な話だ。そして自分もまた、彼らを守りたいと感じている。義務や任務ではなく、そうしたいと思っているのだ。
 以前耳にした村雨の言葉を思い出す。
『少しは人間らしくなったじゃねぇか』
 その頃は、褒め言葉とは到底取れなかったが、今の自分が「人間らしい」のなら、あれは村雨なりの褒め言葉だったのかもしれない。
 御門と村雨の口論はまだ続いている。否、口論ではなく方針についての話し合いだろうか。
── 浜離宮に戻ってからでは駄目なのか?
 主たる秋月を車中に置いてする話でもあるまい。もっとも早々に御門が気付いてやめるだろうから、自分が口を挟む必要もあるまい。つと目を逸らすと別の視線を感じた。見える筈がないのにセダンのフロントガラスの向こうにある彼の目が見えた気がする。
 呼ばれている、そう感じた壬生は静かにその場を離れた。
「何かご用ですか?秋月さん」
 後部の車窓越しに尋ねると、入れと目顔で示されて戸惑う。これまで征樹の隣に座ったことは数える程しかなかった。躊躇う自分に、征樹が今一度入れと示す。
── 何か変だ。
 違和感の正体が何なのか判らないまま、前方に残した二人に目を遣ると、ばちりと音がしたと錯覚する程はっきり村雨と目が合った。
── え?
 御門と話している筈の彼が、何故自分を見ていたのだろう。僅かにずらした視線の先で更に御門とも目が合い、やっと判った。御門から話し掛けられた時から、既に自分はここに向かわされる手筈だったようだ。そしておそらく総ては秋月征樹の指示だろう。
── 御門さんも大概だけど……
 如何に奇矯な頼みであっても、征樹の言葉に従う御門が自分には普通のことだった。正しいか正しくないかではない。村雨は渋い顔をするが、秋月征樹の言葉は神託と同じく、従わざるを得ない。実際、まやかしではなく本物の神託なのだのだから仕方がない。
「なんでしょうか?」
 後部座席に身を滑り込ませて尋ねる。この時間を作る為に御門達はあの場で話しを続けていたのだから。
「腕を上げたね、紅葉」
 栗色の髪の下で、色味の薄い双眸が僅かに細められる。
「ありがとうございます」
 雇い主の労いに対する礼と、
「御門さんの……」
 お陰ですと続く筈だった声は、
「その腕があれば、緋勇さんを助けられる」
 首裏が粟立つ言葉に遮られた。心臓が嫌な鼓動を刻み、顔から血の気が引くのが判る。
「秋月さん、それは……」
 壬生は言葉を呑み込んだ。いつなのか、どういう状況なのかと聞いても意味はない。
『あいつは話さない』
 村雨の顰め面が目に浮かぶ。
 回避出来る分岐があるのなら、征樹は荒神の目を逃れる程度の示唆を与えることもある。だが避けられない災厄に対しては、最後の分岐点で最悪の結末にならない為の手札を用意するしかないのだ。
「大丈夫、まだ先のことだよ。だから紅葉、精進するんだ」
 煙るように笑んだ征樹は友の危機の一片を視たに過ぎない。だからこそ、その可能性ゆえに、
「はい」
 壬生は顎を引いた。


 春の風が吹いている。ざわざわと身の内で血が湧き出るような季節だ。もっとも今の自分には年度の変わり目という意識が勝っていた。生物教師としてこの学園に身を置いて何年になるだろう。代わり映えのしない日々を年若い人間に囲まれて過ごしている。
 古参の変わり者というレッテルもすっかり馴染み、こうして深夜近くの学校に居残っていても誰にも咎められない。
「犬神先生、特別棟の昇降口の鍵締めをお願いしますよ」
 総務課主任がそう言ったのもいつものことで、判っていると応じたのもまたいつものことだった。この地に囚われてから、退屈と怠惰、それに幾ばくかの興味で日々は過ぎていく。
 それでも偶に特異な者が現れて、その日常を掻き回す。その最たる者達が卒業して二年、今もこの街で彼等の氣を感じる度、首裏の毛が逆立つ気がした。牙は肉の感触を舌は血の味を思い出し、同時に燃え盛る松明の焦げた臭いと人々の放つ狂気が蘇る。
 彼等は人間世界に於ける特異点だ。人間だけでなく闇の眷族の世界に於いてもそうかもしれない。もういつでもお前を殺せると、龍を宿す男は今思っていることだろう。
 そして、別の種類の特異点がガラス越しの闇に降り立った。
 大きな翼を消し、もはやトレードマークと化した黒いコートに身を包む男だ。渋々窓ガラスを開けてやると、
「こんばんは、よい季節ですね」
 深々と頭を下げた。
「春だからな」
 素っ気なく言って、犬神は両切りの煙草をくわえる。
「生き物達がざわめいている」
 細めた隻眼で辺りを見回す彼の様に苦笑う。
「石喰いのお前には、生き物なんぞ関係ないだろう」
 血肉を喰らう、生気や精気を吸う妖は多い。屍肉や骨を喰うものはもっと多い。だが、眼前の妖のように無機質な物を喰うものは稀だった。
 いや、このおかしな古妖が飼っている妖も特異な例だ。
「お前のところの雷獣はどうしている」
 成獣になっている頃合いだった。幼獣のうちは肉も食うが、成獣になれば荷電粒子しか喰わなくなる。
「おや、私に興味を持ってくださるとは珍しい」
 喜色を浮かべる 奇師祁 ( くしき ) に犬神は鼻で笑った。
「別に興味などないさ」
「そんなことを仰らずに、寂しいではないですか」
 使ってみたいだけなのだろうが、妖魔が寂しいと口するとは世も末だ。本当にこの妖の変化はたゆみない。生き残る為ではない変化を自ら求める妖などそうはいない。
「雷獣はそろそろどこかの山に行かせようかと思っていますよ。雷雨の度に煩くて煩くて」
 そう言うと奇師祁はにこりと笑った。全く人間の仕草が堂に入っている。
「やはり生の雷に勝る餌はないのでしょう」
 天然の電気と発電所で作られる電気に味の違いがあると知ったら、物理学者は頭を抱えることだろう。そもそも味があること自体考えたこともない筈だ。
── 全くふざけた連中だ。
 目の前の大陸の妖魔といい、この街に住む魔人と呼ばれる者達といい、理りを無視するにも程がある。
「ところで、こちらではどうなのでしょう?」
「何がだ」
「妖の数です。随分減ってしまったでしょう?」
 あの蚩尤擬きが喰ったせいでと、話柄を変えた奇師祁が続けた。
「私の国では不思議なことに、戦で夥しい数の妖魔が死ぬとしばらくして、どこかから補充されたのです」
 ひくりと犬神の太い眉が上がる。
「補充だと?」
「ええ、今までいなかった妖魔の眷族が突然現れる。どこか私たちの与り知らぬところから、送り出されてくるのです。こちらではそういうことはないのですか」
 犬神は首を横に振り、
「お前は見たのか?」
「二度程見ました。確かに今までいなかった種族が、突然ある山系に現れて、そこに元々暮らしていた妖魔達を総て食い殺しました」
 嫌なことを平然と言う奇師祁が、遥か上空からその惨劇を見ていた様が容易に想像出来た。
「覗き見趣味は昔からか」
「いえいえ」
 まさか、と奇師祁がかぶりを振る。
「当時の私には趣味などありませんでしたので、ただ見掛けたに過ぎません。新たな魔物の出現も、在来の眷族郎党が食われるのも、ただの出来事でした。本当に残念ですよ。今の私なら、さざやその光景を興味深く見られたことでしょう。そしてその謎に打ち震えたかもしれない」
 陶然と語る彼の悪趣味は脇へ置く。
「間はどれくらいだ?」
 犬神は煙草を揉み消して尋ねた。この国であれだけの数の妖が一晩で消えたことがあっただろうか。徐々に数が減っていたところに、流言に躍らされた大量の妖魔が食われた。おそらく初めてだ。
「さあ、一年から十年の間だと思いますが、百年だったかもしれません」
 役に立たない奴め、と心中で罵りつつも口に出さなかったのは、蚩尤と同じ時代に生きていたような古い妖にとっては、一年も百年も大差ないからだ。自分とて学校という一年の区切りが明確な場所にいなければ、年月はもっとあやふやになってしまう。
「その時が来たら、犬神さんはどうします?」
 妖しい光を帯びる隻眼を一瞥し、
「さぁな」
 犬神はにやりと笑った。
 退屈に錆び付いた牙を研ぐ日が来るなら、それもいいだろう。


 朝日が差し込んでいる。
── 寝過ごしたか。
 京一は左手で瞼の辺りを擦った。僅かに滲んだ視野がはっきりすると、傍らのベッドがもぬけの殻なのが見える。
── 走りに行ったか、買い物か。
 ぼんやりと考えながら体を起こすと、腰の辺りに怠さが残ってた。しかしそれ以外はすっきりした目覚めだ。布団を畳んで片付けると、台所に立ってやかんをコンロに掛ける。まな板と包丁が出ているところを見ると、大方支度中に不足があって買いに行ったのだろう。
「まだ七時だぜ、スーパーやってねェだろ」
 となるとコンビニエンスストアで手に入る物だ。冷蔵庫を開けてみると、日頃見慣れている飲み物の類いに不足はない。さっき食パンの包みが転がっているのは見えたので、
「卵とか」
 再度冷蔵庫を開けて覗けば、十個入りパックが入っている。
「きちんと野菜も食べましょうってか?」
 野菜室のトレイを引っ張り出せば、そこにプチトマトとレタスの玉が半分収まっていた。
「なんだよ、全部あるじゃねェか」
 龍麻も自分も自分で作る食事には拘らない。美味い物が食べたければ外で食べればいいし、懐が寂しいなら材料を王子に持ち込めば、骨董品屋の店主が嫌な顔をしつつも調理してくれる。
「みんなで食べたほうが美味いだろ?」
 この部屋の借り主の男の言葉一つで、店主の顰め面も解けるのだから問題ない。
「しっかし遅ェな」
 コンロの火を止め、マグカップにコーヒーの粉を振り入れて玄関のスチール扉を見遣る。もっともいちいち見ずとも、彼の氣が近付けばすぐに判るのだが。
 湯気の立つカップを手にして、さっきまで敷かれていた布団の替わりに置かれたテーブルの前に座り、テレビを付けた。朝のニュースの合間に流れるのは、やはりこの季節ならではの光景だ。
「三年か」
 口にするとたったの三年だが、世紀も変わったその間に随分色々な事があった。それこそ詰まらない日常に鬱屈していた自分を大きく変えてしまうような事がだ。怒り、泣き、笑い、その何倍もの時間を僅か三年間に圧縮したような感じだ。その総てはアパートの階段を上がって来るあの男が真神に転校してきた時から始まった。
「不思議なもんだぜ」
 人非ざる者との戦いもそうだったが、今こうして心穏やかに日々を過ごしている自分もそうだ。未だに揶われる「真神の喧嘩犬」はどこにいったのやら。
「あれ、もう起きたんだ」
 そっと扉を開けて中を窺った男が玄関に入った。
「おう、何買いに行ってたんだ?」
 彼が手に下げているのは思った通り、コンビニのレジ袋だ。表面の張り具合からして、何か重い物のようだった。
「ツナ缶と梅干し」
「朝飯関係ねェじゃん」
 思わず自分に突っ込みを入れてしまう。
「朝飯?これは昼のおにぎりの具。朝飯はすぐ出来るよ」
 慣れた手付きで朝食を作る男の後ろ姿を見ながら、京一は冷めかけたコーヒーを口に運んだ。見慣れた光景だった。中国から帰ってきてから、家には数日いただけですぐにここに寝泊まりを始めた。それから半年以上が過ぎている。帰国後も相変わらず妖を倒したり、仲間の手助けをしたり、源から仕事を貰ったりと変わりない日々だ。今日もこれから二人揃っての仕事だった。
「おにぎりってさ、持ってくのか?」
「そうだよ、食べに行く時間ないかもしれないだろ」
 食器の音をさせながら背中で答えた男に、京一は空のマグカップを手に彼の元に行った。マグカップと交換にトーストと目玉焼き、それに数個のプチトマトがのった皿を二つ渡されて、元の場所に戻った。王子の座敷で出される料理とは違い大雑把な代物だが、男所帯の朝飯など、こんな物だろうと思っている。
── いや、如月んとこも今は男所帯か。
 御門の身を案じて日本に来た劉は、そのまま如月宅に身を寄せた。かつての如月なら絶対に許さなかっただろう。出会った頃の彼を識る者なら一様に頷くに違いない。
「なに笑ってんだ?」
 マグカップを両手に一つずつ持って遣って来た男の声が降る。
「何でもねェ。さっさと喰おうぜ」
 そう言った京一はバターとコーヒーの香りに混じる柔らかな香りに鼻をひくつかせた。調理の音に紛れて気付かなかったが、炊飯器から湯気が噴き出す音がする。
「ツナマヨと梅干し?」
 四枚切りのトーストを一噛みする前に訊けば、
「コンビニ、鮭売ってなくてさ。夕方なら売ってる時もあるんだけど」
 でもツナマヨは美味いからいいか、と無邪気に応じる男が街の一つくらいその気になれば崩壊させる力があるとは誰も思うまい。
── ギャップあり過ぎんだろ。
 強さを求め続け、強い者ならば、たといそれが妖でも一目置く自分が、この男を表す言葉が強さではなく、穏やさや優しさなのだから。
 妖に狙われ、ともすれば人にも、その力を欲されるというのに、この男の望みは穏やかな日常と質素な暮らしだ。もし、自分がいなければ、彼は御門の勧めに乗って山門を潜ってしまったかもしれない。
「ごっそうさん」
 ほぼ同時に食べ終えた皿を重ね、立とうとして腰に響いた。
「おっと……」
 立ち上がりざま僅かによろめいたのを見て、
「大丈夫か?京一」
 心配そうな眼差しを向ける男に、京一はにやりと笑ってみせる。
「お前が昨日頑張りすぎるからだろ」
 事実、昨日の彼は凄かった。何度も追い上げられ、刻まれる律動に合わせ存分に快楽を貪った。与えられるのではなく奪い尽くす情交の結果が今の自分という訳だ。だから、
「御免。俺が洗うから、京一は休んでろよ」
 立ち上がろうとする彼の肩を押さえ、バターの香りが残る唇に軽く口付ける。
「凄ェよかったぜ」
 目を見開く男を残し、笑いながら皿を台所に運ぶと、炊飯器が短い電子音を数回鳴らした。
「飯炊けたから、さっさと握って出掛けようぜ」


「ええ季節やな」
 縁側から座敷に戻って来た劉弦月が穏やかな笑みを浮かべる。左目の上に残る傷も彼の愛嬌を損なうことはなかった。彼が渡日してひと月余、冷え込む朝もあるが季節は春になっている。今回は短期滞在のビザなので、来月には帰国しなければならない。
「本当に残らなくていいのかい?」
 先日村雨に連絡した際、秋月の伝手で研修ビザを取得出来るとの打診があり、それを劉に伝えたが、彼は首を横に振ったからだ。
「ええんや。なんか秋月はんに頼むのはあかん気がしてな。せやけど、次の時、どうしょうもなければ頼むかもしれんけど」
 そう言って、ここに滞在中、彼専用となった湯飲みに手を伸ばした。
「次の時ね」
 事件絡みでなければいいがと思いつつ、劉に断ってから木箱を机に上げる。
「これは?」
「蔓草堂から回されてきた因縁物だよ」
 中に入っているのは陶器だ。蓋を取って取り出した。馬に乗る武人の人俑で、高さは人も含めて二十数センチ、馬の鼻から尻までは、それより少し長いくらいだ。
「唐三彩やね。本物?」
 いいや、と首を振る。唐三彩は、漢時代に誕生した中国の焼き物だ。そして、
「贋作だね。でもよく出来ている」
 贋作が多いことでも有名だ。土台の白、釉薬の銅の緑、そして鉄の黄色で彩色され、作りは精緻で目立った損傷もないが、博物館に飾ってあるような鮮やかさはない。仁寺洞辺りの骨董街で買った物かもしれない。
 河南省に精巧な唐三彩の贋作を作っている村があると聞いたことがある。門外不出の釉薬を使い、最後の仕上げに土中に埋めて寝かせるらしい。古代の墓の土のような古い土に埋め、完成まで数年を費やすともいう。そして最後にわざと一部を壊すという念の入れようだ。
「これにどないな因縁があるんや?」
 首を傾げる劉が感じ取れないということは、自分が全く感じなかったのも当然だろう。
「動くらしいよ」
 言い残して如月は台所に向かった。蔓草堂の番頭から聞いた話では、動く条件があるとのことだ。
── 酒ねぇ。
 定番といえば定番だが。
「日本酒でもいいのか?」
 老酒があればそれの方がよさそうだが、と考えつつ茶碗に一升瓶から酒を三分程注ぐ。
──日本酒 ( これ ) にあうツマミをいただいたっけ。忘れずに持って行かないと……。
 茫洋と考えながら座敷に戻ると、劉が馬と睨めっこをしていて、思わず微笑む。戦闘時に鬼神の如き存在感を放つのが嘘のようだ。
「見詰めていても動かないよ」
 裾を捌いて座ると、香った酒精に劉が成程と頷いた。
「酒好きな置物は珍しくない」
 馬の前に茶碗を置いてみる。
「如月はん、試して平気なん?」
「蔓草堂でも試したそうだが、動かなかったと……」
 ひくりと馬の鼻先が動いた気がして、如月は言葉の続きを飲み込んだ。
「今、動かへんかった?」
 呟くように劉が口にした直後、じりじりと馬の首が下がっていく。
「如月はん?」
 劉が馬の動きに釣られたように、ぎこちなく頭を巡られてこちらを見た。
── どうする。
 酒を取り上げるべきなのか、それともこのまま飲ませていのか。頭の中でかつて読んだ本に書かれていた事例を探すが、正解は半々だ。飲ませて凶暴化した例、対して飲ませずに祟られた例。
「如月はん!」
 もはや馬の鼻面が茶碗に隠れようとしている。咄嗟に手が伸びた。どちらか正解など考えても仕方がない。茶碗を横から掠め取る際に液面が揺れて飛沫が飛び、その滴が馬の鼻先に掛かってしまった。
── まずい。
 中途半端な行動にいいことはない。
 劉もすかさず飛び退り、片膝を突いて青竜刀を手探りしている。
「劉、隣の部屋だ」
 人馬から目を離さず、如月は鋭く言い放った。
 有事なら身近においている武器だが、今は劉が寝泊まりしている隣室にある。劉が隣室にするりと滑り込むのを捕らえる視界の手前で、馬の鼻先に飛んでいた水滴が見えない舌に舐め取られたかのように消えた。
 隠し持っているのは棒手裏剣のみだ。たかが動くかもしれない置物と侮った己の軽率さを悔いても詮無いことだ。すぐに劉が青竜刀を下げて戻って来る。対処は出来るだろうが、
── ここでは……。
 居間で戦闘する羽目になれば如何に悔いても悔い足りない。
 酒の匂いに誘われるのか、馬の首がこちらを向いて来る。見た目は相変わらず只の陶器だが、さっきよりも動きは滑らかになっていた。そして劉が座敷に飛び込んで来た時には、馬の足が一歩こちらに踏み出そうとしていた。
「如月はん、何したらええ?」
 抜き身を構える青年の眼差しがぎらついていなければ、場所がら剣舞でも始まろうかというところだ。
「まだ大丈夫……だと思う」
 かつんと硬い音をたてて、蹄が机に当たる。一歩、更に一歩と座卓の上を歩く陶器の馬の動きが徐々に滑らかなものになる。
「如月はん……」
 ああ、判ってる。だが、彼の位置からでは、木箱が邪魔になり、おそらく一断出来ないだろう。そして自分はまだ酒の残っている杯をどうしたらいいのか迷っている。
── これを投げれば、それに釣られて動くのか?
 劉の青竜刀の間合いに誘き出す。それがこの状況から抜け出す一番の手段なのだが、「後片づけ」という言葉が頭から離れない。だが……。
── 自分が巻いた種だ。
 出掛ける前の後片づけを覚悟した時だった。ぴたりと馬が脚を止めた。
「どうやら収まったようだな。劉、刀は……」
 もう仕舞っていい、と続く筈だった如月の声は突然胸元に飛び込んできた馬に呑み込まれる。止まったのは飛び上がる為。目標は勿論、如月が手にしている杯だ。
「如月はん!」
 劉の悲鳴じみた声と如月が馬を杯ごと払った音が重なる。空を舞った馬とそれにまたがる武人に杯が当たり二つに割れた。四つの目が追う先で、いかにも気持ちよさげに酒を浴びて彩りも鮮やかになった馬が、すたと畳に下り立ったかと思うと、いななきを上げて走り始めた。
「劉、外に出すな!」
 いち早く我に返った如月の声に飛び跳ねるように青竜刀を手にしたままの劉が広縁側に立つ。その間に馬は座卓の下を凄まじい速さで潜り、立ち塞がる劉の足下で急旋回して如月と茶箪笥の間を駆け抜けた。
── 店に行かれてはまずい。
 開いたままの扉に目を遣り、如月は瞬時に座敷と店の被害の大きさを天秤に掛ける。そして店の被害を避けたいと、否応なく放った棒手裏剣が、さくさくと畳に突き刺さった。目の前に現れた柵を前に再び馬は軽やかに向きを変え、劉が座っていた座布団の上を跳ね走る。それを追う手裏剣が座布団と畳に放たれ、見事にそれをかわした馬へ目掛け、最後に放った手裏剣が劉の足先を掠めて突き刺さった。
「哇!」
 劉が思わず足下の馬へ青竜刀を振り下ろすと、またがる武人が爪楊枝に毛が生えた程度の剣で、それを弾いた。
「嘘や!」
 受け流された幅広の剣の勢いを必死で堪えたもの、刃先が畳を無残に削り取る。
「こんなんありえへん」
 泣き言を言いたくなるのも無理はない。かくいう自分も自らが放ったとはいえ、畳に突き刺さっている棒手裏剣を見ると泣きたくなる。
 そんな二人を尻目に、馬は嬉々として走り、馬上で武人は剣を振り回し続けていた。座敷の中を所狭しと走り回る馬の姿に、
「如月はん……どないする?」
 青竜刀をいなされたことが余程堪えたらしい劉の声音に、如月は深い溜息を漏らすと口を開いた。
「酔いが醒めるのを待つしかないようだ」
 いくら軽やかに走っているとはいえ、人を乗せた陶器の馬で、陶器の蹄だ。その重量を考えると、畳が毟られたようにささくれ立っていく。
「……よっぽど嬉しいんやな」
 肩を落とした劉がぼそりと呟いた。


「で、どうだった?」
 向かいで胡坐をかく男に尋ねられた。
「壬生さんですか?」
 御門は問い返す。もっともそれ以外の筈もなかった。
「まぁな」
 ここはいつ来ても青畳の匂いがすると言う男だ。同じ畳敷きでも、王子の座敷のような生活感が全くが、と。
 実際、彼の言葉は正しい。ここには白木の机があるだけで、調度品は殆どない。それはこの部屋が浜離宮における私室であるよりも仕事場としての意味が大きいからだ。ここで札を書き、時には妖魔の血肉を調べる。畳の香りは、この部屋で残る穢れを清める香の替わりでもある。
「で、この前のあいつの出来は、どう思った?」
 さりげない口調で村雨が問う。
「そうですね……」
 壬生が実戦で咒弾を使用したのは先日が初めてだった。これまでずっと浜離宮内の訓練のみだったので、念のため村雨は彼に向かわせる妖の数を調整していたようだが、その必要はなかったかもしれない。
 壬生の戦いぶりは十分な出来だったと思っている。
「初めてにしては十分、いえそれ以上でしたね」
 したり顔で頷く彼を見るまでもなく、村雨も自分と同意見と判っていた。
「ただ、今回は一種類の弾しか使わなかったのが残念です。あの程度の魔物では仕方ありませんが」
 咒弾の製作者としては、より強力な咒弾の成果も見たかったと言うのが本音だった。その咒弾に使用する咒も、元はこの部屋で書いたものだ。もっとも壬生が弾数を気にしなくていいように、今回使用したのは印刷によって大量生産された呪符を弾状にしたものだった。より強力な弾は、一つ一つ手書きになる。
「元々ああいう相手用だぜ。的がでかくなれば、あいつは銃なんざ使わなくても倒せる」
 容易いことのように肩を竦める村雨だが、こちらは訝しげに眉を寄せてしまう。
「それは相手によりけりだと思いますよ。いくら的が大きくても近付けないこともあります」
 だから強力な咒弾を作る必要がある。
 毒や瘴気、生身の人間を殺す手段を持っている者はいくらでもいるのだ。壬生は確かに常人ではない。だが生身の肉体自体は、普通の人間と変わらない。それは自分や眼前の男にしてもそうだ。だが、体を使って戦う壬生と自分達とは大きな違いがある。
「私達は……」
「俺達は符術を使うから距離感が違う、だろ?」
 判っていて言うのだから、本当にこの男は質が悪いと、皆に思われていることだろう。
── 私は慣れましたが。
 御門は短い溜息を付く。
「そうです。私達は基本相手と肉薄することはありません。逆に言えば、そこまで敵を近付けてしまえば私達の敗北ということです」
「だから壬生を雇ったんだろ?」
「……そうですね」
 接近戦に長けた者を征樹の側に配したかった。確かに始めはそれだけだった。
「だが、それだけじゃ勿体ねぇと思ったから、あんなもんを作ったのか」
 自らの膝に肘を突いて頬杖にした村雨いわくのあんなもの、即ち飛び道具である銃器。
「まあそんなところでしょうか」
 自らの声に揺らぎが混じるのは、おそらくそれだけではないからだろう。主を守るだけなら飛び道具は必要ない。迎え撃つ為の術ならいくらでもあるし、今迄はそれで防いできた。
── 防ぐだけなら……。
 御門は僅かに柳眉を寄せた。
 今迄凌ぎ切ってこられたから、今後も大丈夫と言い切れるだろうか。その不安が壬生に新たな力を与えることになった。緋勇龍麻の力になりたいという壬生の願いを隠れ蓑にして、本来なら彼が決して手に取らない武器を渡したのだ。
「……だった」
 声に我に返ると、村雨の怪訝そうな顔が目に入った。
「何です?」
 聞いてなかったのかよ、とぼやきつつも、
「征樹が壬生に言ったそうだ。いつか壬生の銃が龍麻を救うってな。お前は聞いてないのか?」
 そう言った村雨に御門は首を横に振る。
 壬生がこのまま訓練を続ければ、龍麻から手助けの要請があった時、十分な働きが出来るのは間違いない。ひいてはそれが龍麻を救う事になる。だが、征樹が言ったのは、そういう事ではあるまい。もっと命の危険が伴う局面の話だ。
「まだ先のことらしいが、壬生にしてみりゃ、いいんだか悪いんだか」
 力になれるのは嬉しいが、龍麻の身に危険が及ぶのは困る。そんな壬生の気持ちを慮って憂慮するこの男の心根は好ましかった。そんな男だから秋月を見捨てられないのだろうと思うこともある。
 幸いなことに、と内心で苦笑う。
── 私も結構頼りにしているんですね。
 向かいの男を見遣り、
── そういえば、今日は……。
 御門は口を開いた。
「そろそろ出掛ける時間でしょう?」
「あ?もうそんな時間か。お前はやっぱり行かねぇのか?」
 立ち上がり掛けた村雨に御門はかぶりを振った。
「私までここを空ける訳にはいきませんよ。誘っていただいたのに申し訳ないと、如月さんに伝えてください」


 王子駅を出て少し進むと昔ながらの商店街がある。一時潰れそうになったものの、近頃はレトロな感じがいいとかで、わざわざ途中下車して訪れる客もいるらしい。そして、いつもならそれを過ぎてからだらだら坂を上った先が目的地だが、今日は更にその先まで行くことになっていた。
 春爛漫という言葉が似合いの午後もそろそろ終わり、陰り始めた日差しが弱く感じられる薄暮も近い。
「村雨さん」
 隣を歩く自分と同じくらいの背丈の男が口を開いた。
「地球上の命の数は太古から今に至るまで、いつも一定だったと思いますか?」
 なんとも唐突な壬生の問い掛けに、
「んなわけあるか。恐竜が闊歩してた頃と今で生き物の数が同じ筈ねぇだろ」
 村雨は一蹴した。
 人の数だけでも二十世紀の間で倍以上になっている筈だ。
「貴方もそう言うと思ってましたよ」
 小さく笑った男の横顔に眉をしかめる。
「貴方もってのはなんだ?」
「僕も秋月さんにそう言いました」
 笑みを深めた壬生が続ける。
「そうしたら秋月さんが何と言ったと思いますか?」
 あの征樹の考えが判る筈もない。肩を竦めて見せた。
「どうして命というと生物だと思うんだい、と言われましたよ」
「どうしてって、そりゃ……」
 決まっているだう、と言おうとしてそれを呑み込む。征樹の言ったことを脳内で反芻して気付いたからだ。
「ああ、そうか」
「ええ。そういうことです」
「それにしたって一定じゃねぇだろ?」
 見慣れた道を辿りながらそう言うと、
「数億程度の差はあるそうですよ。ですが、誤差の範囲だそうです」
 壬生が言った。
「誤差ね」
 確かに数億程度、いや数十億程度でも誤差の範疇だ。征樹のいう命とは、有機物総てだからだ。蛋白質を構成要素に持ち、ある程度の伝達物質を持つもの総てと考えれば、バクテリアから恐竜までの総てを「命」というのなら、先史時代に何度かあった絶滅期を除き、一定といえなくもないのかもしれない。
「なんであいつはそんな話をお前さんにしたんだ?」
「判りません。なにせ秋月さんのことですか」
 生真面目に応じる壬生に、
「大分征樹のことが判ってきたみてぇだな。だがな、命の数が一定なんざ、ただの戯言だぜ。壬生、あいつの言うことをまんま真に受けんなよ」
 そう言って笑ったものの、
── おっかねぇ話だぜ。
 村雨は首裏に薄ら寒さを覚えた。
 自分達に与える征樹の予言は暗喩だ。地球規模の話などではない。おそらくはもっと身近で、もっと危険なものだ。
 後になって、そういう意味だったのかと知る類の喩。または質の悪い扇動。仲間内を巻き込み、目隠しで危うい道を進めと煽る。壬生の銃が龍麻の命を救うというのも、征樹お得意の惑わしかもしれないと思うと、我知らず眉根が寄った。そこへ、
「ええ。額面通りとは思いませんが、全くの絵空事ではないのも判っているつもりですし、いずれ判る時が来る気がします」
 ほぉ、と村雨は目を細める。
 睨んだ通り、この男の学習能力は高い。そうでなくては、彼を秋月に引っ張った甲斐がないというものだ。
「何か?」
 不愉快そうに眇められても、その清廉さが消えない双眸に睨まれる。
「いや、すっかり秋月だと思ってな」
 にんまりと笑って見せると、すっと彼の黒い瞳が瞼に隠れ、再びそれが姿を見せると、
「お陰様で」
 澄ました声音を零した唇が微かに綻んだ。だが、それをじっくり鑑賞する間もなく、その唇が動く。
「あれは雷人ですかね」
 そう言われて目を向ければ、目立つ金髪が坂を登って行くのが見えた。いつの間にファーストネームで呼ぶようになったのか。如月の命には絶対服従という点が似ている二人だが、それで意気投合した訳でもないだろう。だが、親しい者が増えるのはいい事だ。
「如月んとこに寄るんだろ。お前はどうする?」
 一緒に行きたいのかもしれないと思い水を向けたが、
「僕は龍麻達を手伝うので、先に行きます」
 壬生はかぶりを振った
「そういう貴方はどうしますか?」
「俺か?」
 いつもなら、如月の所で一服してからという流れだが、何故だろう、何か嫌な予感がしてその言葉は喉に貼り付いた。
── 君子危うきに近寄らず、いや、さわらぬ神に祟りなし、か。
 得意の勘がそう囁いているのだ。
「俺も止めとくぜ」
 呟くように返した言葉に、壬生が怪訝そうに小首を傾けた。


 あれから小一時間が過ぎ、やっと大人しくなった唐三彩の贋作を酒気厳禁の但し書きを四方に貼って封印し、蔵にしまって戻った如月が戻ってくると、荒れ野原のような座敷を見回し、深い溜息を漏らしてから、
「お茶を入れよう」
 そう言って台所へ向かった。
「おおきに」
 力なく声を投げた劉は恐る恐る袖を捲る。動きが鈍くなった馬を捕まえる際に、さんざん蹴られて出来た楕円の赤い痣が点々とついている。置物の馬に痣を作られたのもショックだが、それよりあんな小さな剣で青竜刀が弾かれたことの方がショックだった。さぞや高名な武人、関羽か張飛、はたまた項羽か劉邦か。そうでも思わないと立ち直れそうになかった。
「うわ、どうしたンだ!」
 庭先からの声に涙目で振り返る。
「雨紋はん……もうそないな時間?」
 のんびりと夕刻を待つ筈が、と劉は拳で目元を拭った。
「何があったンだよ、襲撃か?」
 首を横に振ると、ジャケットを広縁で脱いだ雨紋が如月の姿を探すのを見て、台所にいると教える。それを聞いて頷いたものの、ささくれ立った畳表に雨紋が金色の眉をひそめる。
「畳がボロボロじゃン。襲撃じゃないなら、何があったンだよ?」
 違うと応じたが、実際には襲撃のようなものか、と劉は胸の中で呟く。
「あんな、お馬さんがな、走り回ったんや」
 辛うじて答えても、当然ながら雨紋の眉は開かない。
「馬?馬って、あの馬カ?どうして馬が家の中に入って来ンだよ」
 時代劇でもないのに、と続けた雨紋に答えたのは如月だった。
「置物の馬が走り回ったんだ」
 座敷の声が届いていたのだろう。雨紋の分の湯飲みも乗せた木盆を運ぶ如月が座敷に戻る。
「今日はもう、酒を見たくない気分だ」
「わいもや」
 確かに、と劉は頷く。
「何言ってンだよ。今日は……」
 雨紋が言うのを押し留め、劉はこの座敷がこうなった理由を話し始めた。
「あんな、如月はんが預かりもんを箱から取り出したんや」


 聞かなければよかった、というのが、今の雨紋の正直な気持ちだ。
 呑気に鼻歌交じりで門戸を潜った自分に、今すぐ周り右をしろと言ってやりたい。劉は馬が走ったからと言ったが、傍らの畳にある傷はどう見ても如月の棒手裏剣が刺さった跡だし、座敷の上がり端にはざっくりと刀傷が残っていた気がする。
 振り返って確かめるのも恐ろしく、雨紋は確と掴んだ湯飲みを口元に運んだ。こんな有り様でも如月のいれる茶は美味い。
── さすが如月サンだぜ。
 妙な感慨を深める雨紋だが、荒れた部屋に満ちる疲労と怒りの沈黙で息が苦しい。
 こんな時、龍麻がいてくれれば、如月を宥め、劉を慰めて二人の腰を上げさせられるだろう。この際村雨でもいい。彼なら如月の機嫌を逆撫でしつつ、引っ張り出せるだろうし、京一なら劉を慰めつつ笑い飛ばして如月の顰蹙を買い、彼の怒りの矛先を変えることが出来そうだ。
 だがここにいるのは自分だけで、ではその自分に出来そうなことは何か、と雨紋は自問自答する。
 龍麻の替わりには到底なれない。村雨の替わりも無理だ。京一の替わりは出来そうだが、後が怖いのでやめておきたい。だが、龍麻を引き合いに出すのは悪くないかもしれない。
── 確か二人が準備してるンだよな。
 その辺りを攻めれば何とかなるのではないか、いや、それ以外には思い付きそうもない。
「そろそろ行かないとサ、日も暮れてきたし」
 口火を切る。
「そうだね」
 生返事をする如月に、
「龍麻サン、きっと待ってるゼ」
 極力さりげなく、しかしながらはっきりと龍麻の名を口にすると、ぴくりと如月の眉が動いた。そして、
「せやな」
 劉も何度か頷いて顔を上げる。
── さすが龍麻サン。
 黄龍の器は伊達じゃない。
「来週、畳替えをしよう」
 如月の呟きが耳に届いた。


 盛りを過ぎた桜の花片がはらはらと土の上に落ちていく。時折吹く風に舞い、皆が集う畳敷きの座敷にも幾片か迷い込んで来た。
「若旦那の座敷も悪かねぇが、ここも風情があっていいじゃねぇか」
 村雨が言う。
── あれを見て、風情って言うか……。
 龍麻は苦笑った。
 古びた石の上にも、花片が降っている。古びた石はいわゆる墓石で、ここは古刹かどうか知らないが古寺の宿坊だった。
「そうですね。浜離宮の桜とはまた違っていいものです」
── 壬生、お前もか。
 真夏の肝試しか粋人の百物語の会でもなければ、開け放たれた繰り戸と障子の向こうに墓石が乱立する光景に風情は感じない。
 そして、この場に集う者達は、何も好き好んで肝試しや百物語をする必要もなかった。その対象物に嫌というほど遭遇してきたからだ。
「あの程度の労働で貸してもらえるのなら安い物ですね」
 壬生の声がする。
 あの程度の労働とは、壬生の気遣いだろう。実際は重労働だった。住職から借りた作務衣は四着とも汚れまみれになり、全身汗だく、草の臭いと泥の臭いがこびりつき、服と人間の両方を洗濯する為に近くの銭湯に行ったほどだったのだ。
「壬生達が手伝ってくれたから終わったんだ。俺達だけじゃ、絶対無理だった」
 龍麻は深い溜息をついた。
 少し遅いが花見をしようと言ったのは如月だった。劉の帰国前に皆で宴をということなら大賛成だったし、しかも源左衛門の伝手で、宴向きの会場をアルバイトの賃金として貸してくれる寺があるという。
 日頃の妖魔相手に比べれば大した仕事ではないという如月の甘言に乗ってしまった自分達が愚かだったのだ。うまい話には裏がある。ましてや骨董品店の若旦那のうまい話には必ずある。
 昼前にこの寺に着くと、源いわく生臭坊主の住職から、墓地の掃除と草むしりがアルバイトの内容だと言われた。そして宿坊を使うなら、そこの掃除もした方がいいと、気の毒そうな顔で続けられた。春の彼岸に訪れた者がいたのか怪しいほど荒れた墓地は、都下にしては広い部類で、一気呵成に終わらせるつもりだった京一が、一目見て肩を落としたほどに雑草が生い茂っていた。
 宿坊の掃除は最悪早めに来た者に任せることして、道具小屋から借りた鎌をひたすらふるい、刈り取った草を大きなゴミ袋に詰めていく。体力に自信はあるが、使う筋肉が違うのでかなり堪えた。日が傾き始めても、まだ四分の一が手付かずという状況に京一と顔を見合わせていたところに、村雨と壬生が来たのだ。
 端から手伝うつもりだった壬生は勿論、何故か彼に付き合って草むしりに加わった村雨のお蔭で、宴の会場である宿坊の掃除まで終えることが出来た。
 終わった時には疲労困憊していたが、銭湯で一風呂浴びてすっきりして寺に戻ると、如月達が来たところだった。
── 俺達以上に疲れた顔してたけど、大丈夫かな。
 ちらりと背後を窺うと、京一が勢いよく劉の丸まった背中を叩いているのが見えた。その隣で如月が諦めたように酒を口元に運んでいる。見られていることに気付いたのか、その彼とつと目があった。糸で吊り上げられるようにすっと立ち上がり、こちらに来た彼が、
「御門君には過分な気遣いをいただいた、と礼を言っておいてくれ」
 村雨に言った。
「なぁに、寸志替わりだ。気にすんな」
 某有名料亭の花見料理一式が届いた時には驚いた。お陰で黄ばんだ畳の上での飲み会が、一気に華やかな花見の宴に変身したのだ。
「それより。若旦那、店で何かあったのかい?」
 意味あり気に目を細めた村雨に、如月は険しく眉をしかめつつも、
「大したことはない」
 そう言った。
── 大したことだな。
 それなりに深い付き合いだから判ってしまう。これは「大した出費」絡みらしい。村雨も壬生も、多分自分と同意見だろう。そんな如月の対処は経験則のなせる村雨の技に頼ろう。
 目配せに浅く顎を引いて返した村雨が大仰な仕草で如月を手招きする。
「なら、こっちで飲めよ、若旦那。桜の散り際眺めながらってのも乙だぜ。おい、お前等も、折角の花見だ。少しは花を愛でろ」
 劉と雨紋、そして京一にも声を張る村雨を横目に、嘆息した如月がすとんと腰を下ろした。
「如月?」
「大丈夫だよ、龍麻。自分の未熟さを痛感しただけだから」
 薄く微笑む如月は、いくらかいつもの彼に戻ったようで、
「壬生、近頃変わった武器を使うようになったそうだね」
 壬生のグラスに奇麗な緑色の半升瓶から酒を注ぎ始める。
「御門さんのお陰で、少しは足手纏いにならずに済みそうです」
 謙遜する壬生を村雨が柔らかな眼差しで見詰めていた。壬生はもうすっかり秋月の一員なのだろう。そしてこれからも、彼は秋月の庇護を受けて生きていける。
 よかった、と心から思っていると、
「なぁ聞いたか、龍麻」
 背後からぐいと腕を回して来たのは酒精が香る京一だ。
「何を?」
 いつもの調子で訊いてしまい、
「如月の……」
 言い差した京一の口を慌てて手で塞ぐ。
「その話は後で」
 こそと囁いて、如月を見れば、聞こえていたかもしれないが、無視する方を選んでくれたらしい。だがほっとしたのも束の間、
「聞いてくださいよ、龍麻サン」
「聞いてぇな、龍麻はん」
 豪華な料理が詰まった重箱と、村雨と壬生が下げてきた高そうな一升瓶を抱えた二人組が雪崩れ込んでくる。
「馬が走り回ってな、そんでわいも蹴られてこの様や」
 赤い痣が点々と残る劉の腕を見せられたかと思うと、
「敵の襲撃でもあったンじゃないかってくらい畳はボロボロ。しかも如月サンの手裏剣が……」
 余程怖い思いをしたのか、ぐいと雨紋が顔を寄せてくる。
「な、おかしいだろ?」
 己の口を塞いでいた手を外し、その手を自然と握ったままで京一が朗らかに笑った。
「笑いごとじゃねぇよ、京一」
「せや。あんたもあの場におったら、わい等の気持ちがわかるで」
 如月の背中が小刻みに震えているのが見える。その向こうで村雨が笑いを堪え、壬生が彼に肘鉄を食らわせた。
 零れ桜の花見の宴は賑やかに、そして一寸の剣呑さを含み、
── これが俺達の平穏か。
 龍麻は小さく笑った。
 願わくは少しでも永く続くように  ── 。

完  

 

それを初めて見付けたのはいつのことだったか。
 我々の牙でも容易に砕くことの出来ない固い鉱石の岩が聳え立つ谷間の一角に、それはあった。
 身の丈ほどの高さと視覚器官が辛うじて覗き込める程度の幅のそれは、ともすれば岩肌に書かれた一本の筋にしか見えない。
 その筋が、実は隙間なのだと知った時、自分は何の意図もなく「目」を近付けた。何かが見えると考えてもいなかった。単なる習性のようなものだったが、その隙間は闇に閉ざされてはいなかった。山を越えた先まで穿たれているように、向こうの景色が見えたのだ。だが、山向こうの風景を自分は良く知っている。それ以前に、そこに見えた物は今まで見たこともない世界だったのだ。
 別の世界の入り口、と我が身の奥底に潜む記憶の欠片が囁いてくる。
 いつの日か、その隙間は開き、一族郎党を引き連れて自分はそれを潜るという予感があった。
 それまで、己の見るその世界は細い細い隙間の世界でしかないとしても。

本当に長らくお付き合い下さりありがとうございました。皆の日常を最後に、これにて幕とさせていただきます。

                 

鴉猫拝